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●ダンスとJUN
日本独自の表現形態japormance(ジャポーマンス)
探求のため国内外の旅を続ける…そしてついに
独自のダンススタイルとして「傾舞(kabuku mai)」を発表…
コンセプトを「武」+「舞」+「奉」+「禅」
身体操法としてバレエのテクニックの変わりに
「未熟態」というユニークなメソッドを開発し国内外でワークショップを展開

 

JUNの提唱している

オチジナリティあふれる
ダンススタイルとコンセプト、
そ してその歴史について
その一部を
ご紹介します!



傾舞(kabuku mai) japanese Contemporary dance
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傾舞とは「武+舞+奉+禅」の4つの漢字であらわされるコンセプトを持つ
JUN独自の思想を元にしたコンテンポラリーダンス。
技術的には、日本人独自の身体操法に着目し「双 軸」(2本のセンターを駆使して踊る)など数多くの体系を持っている。

面白いことに、日本人独自の運動を探求するため
彼は環太平洋の島人達に共通の動きを見出し、海洋民族の身体性を研究。
この思想と技術を纏め上げた。

Kabuku mai is a contemporary dance based on Jun’s original philosophy

which can be expressed by four Japanese characters, BU (martial art), MAI (dance),

HOU (dedication to god) and ZEN (the way of meditation in Buddhism).

Technically speaking, he focused on Japanese traditional physical movement as

Soujiku

 

 

瞑想鉄拳(Meisou Tekken)

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「静寂の中の爆発、爆発の中の静寂」それを体験するのが「瞑想鉄拳」である。
モジョライジング横山とJUNによる表現ユニットとして始まった。
世界中の民族楽器と世界中の舞踊の坩堝(るつぼ)それが「瞑想鉄拳」である。森羅万象の現象は陰が極まれば陽となり陽が極まれば陰となる。
そんなそんな陰陽反転の際、一瞬存在する「どちらでもない反転空間」がそんざいする。しかし、それを「瞑想鉄拳」は「どちらでもある普遍空間」と定義づける。
その一瞬の時空を、押し広げ、引き伸ばし劇場空間として存在せしめ、観客をその中に幽閉して瞑想鉄拳の極意「静爆爆寂」を体験してもらう事を意図としている超絶ダンスパフォーマンス。

 

 

 

響幻(kyou gen)

jun-dance2.jpg

非言語領域における場と人の同調をテーマにしたもの…
それが「響幻」である。
イメージはぶつかるものだけれど意識は同調する。
作品を作る時、普通コレオグラファーは、伝えたいイメージをダンサーやミュージシャンにあらゆる手段を使って伝えようとする。
インプロバイゼーションである場合は、事前にダンサー、ミュージシャンは、統一のイメージを話し合うのが常である。
しかし、様々な「場所」、様々な「空間」で行われる「響幻」は、その時、その場に同期する事を目的とする。時は移り変わり、場(磁場)は刻々と変化する。そこで人だけが語り合い合意した意図は人と人だけの契約といえ、刻一刻と過去の遺物として自然に置き去りにされるのだ。
時間や空間と話し合う事はできないからだ。
「響幻」では、観客は魅了されるのではなくその時空を体感する。
観客にとってこれは、何かが「おきるべくしておこる場」の一部になる行為といえる

 

 

風人(Hou jin )

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大抵の場合が野外で行われる演目…それが「風人」である。
風人は、観客を意識しない、ただ、その場に何がしかの「必然」を起こすために行われる。その技術体系は環太平洋沿いの先住民文化に存在するシャーマニズム的なものをベースとしており、風人は観客ではなく、その大地と天空のために奉納され、観客は2次的にその現象を体験できる。
その姿は一見、今でも神社仏閣などで芸能が奉納される様に似ているが、もっとプリミティブ(原始的)なものだ。
現代人の価値観の中では、もっと潜在意識の底…奥次元に存在する精霊や妖精との記憶と同調する。
風人が上手く行えた場合、雲がおどり風が共に現象をおこす。動物や鳥、昆虫までもが、その空間にあつまり共に舞い踊る。
不思議な事に、天然物だけでなく無生物や人工物ですら風人と共にフェノメナン(現象)を奏でる事も多く、風人が完成する時、ダンサーはダンサーではなくなり自然現象となる。観客にとってこれは大自然の「みのりの仕組みを体験する場」ともいえる行為なのである。

 


奏偶(so good )

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人口的劇場で大自然を根源的要素の再現に挑戦する…それが「奏偶」である。

人は皆、ただそこにある大自然に感動するものだ。
しかし、そこに予定調和や恣意的な意図は存在しない。
存在する石や草木はそこにあり風は吹きゆくだけであり動物は誰にも媚をうらない。自然は、ただその存在を演じ切っているものの配列があるだけだ。
その調和を求めない共存の姿勢は、生命の共生の本質を信じているかのようだ。
「奏偶」が劇場で演られる時、劇場に存在するミュージシャンはダンサーを見ない。ダンサーは音楽を聞かない。ただ純粋に今の自分になりきる事に互いが専念し、あわせたりコラボしたりはしない…コレオグラフのような何かを伝えるための至高をめざすピラミット的な装置ではなく、末広の観客が多様に如何様にも解釈する事ができる空間を作り出す事を目的としている。

劇場という人口空間ですら自然の一部、天然の空間であると信じる行為…それが「奏偶」である。観客にとってこれは、自分を取り戻す「祈りの場」ともいえる

 

 

武舞(BU BU)

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頭で考える平和はイメージにすぎない…それをいかに具現化するか?
世界中の平和の意識の根源をさがし先住民文化を旅して、彼ら伝統的な暮らしをする人々の儀礼や儀式を体験し学んだ時、それが日本でいう「縄文人の意識」であると気づく。
そう、縄文は世界で一番長く平和のつづいた文明である。
なのに現代の日本人は頭の中にある平和のイメージを体現する身体能力も体感もすでに忘却の彼方に忘れてしまっている。何故か?
それはイメージを具現化する身体意識を忘れてしまったからだ。

そんな時、縄文の平和の意識の種が存在していたのが日本の古武術だった。
「平和学」を研究する人々は、殺人術である武道武術は真っ先にその研究対象から外したのだろう。しかし、縄文人はすべて狩猟採集民族であり、ハンター、ウォリヤーなのだ。彼らのそのとんでもない身体意識は、文化として敵こそが最高の自分を磨いてくれる先生であり尊敬すべき相手であるとして敵に礼を尽くす日本武道の中に生き残っていた。
つまり狩猟採集の時代、狩りをするものは半分の確率で他の動物に食べられていた対等の立場だった。平常心、自然への畏敬の念、敵へのリスペクト、無益な争いができないのは互いに殺人術を修めているから…
そう、平和の具体的な身体操法は真逆の武術のコアの部分に隠れて生き残っていたのだった。これは僕の人生最大の発見の一つだった。
「武舞」それは、観客が超絶的武道の極意の身体操法を目の当たりにする事で何故か平和と癒しを感動と共に体験する時空反転行為といえる。

参照;天手Amante https://peraichi.com/landing_pages/view/amante

 

 

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